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 ・・・ここでは、撮影年次の分からないもの、撮影が比較的新しいものを中心に、その他の写真として展示しています。

 こちらはやはり7000系。おそらくは昭和58年前後に撮った写真だと思います。ネガはすでにどこかへと消え、残っているのはこの写真のみです。

 当時、急行系の電車は冷房車がほとんどを占めていましたが、ラッシュ時には写真のように非冷房車も入っていました。




 上の写真と同じ時期、同じ場所での撮影です。恐らく沿線では珍しい雪が降ったため、その記念にと撮ったものだと思います。

 写真は準急です。当時、準急には2つのタイプがあり、これは泉佐野以遠が各駅停車になるタイプです。もうひとつは堺から各駅停車になるもの。表示や案内類は、前者が赤、後者が青を使用していたため、「赤準急」「青準急」と呼ばれていました。同じ種別で停車パターンが異なるのはややこしいからか、現在は「赤準急」は区間急行という種別に改められました。

 羽衣付近にて。7000系の試運転列車です。かろうじて写っているドアステッカーの形が古いタイプのもののため、自分が写した写真の中では一番古いもののように思われます。

 ど逆光で見にくい写真ですが、南海電車はほぼ南に向かって走る電車、ということで難波側から撮ると、日中以降はすべて逆光になってしまいます。

 自宅付近で撮ったものだと思います。7100系です。割と最近、昭和末期の写真のようです。当時は普通電車はこのスタイルが一番ポピュラー。なんでこんなものをわざわざ撮って、しかも数ある写真のなかからわざわざ取り分けて後生大事に保存していたんだろうと、自分で自分がよく分かりません。

 難波駅。写真は8200系です。かなり暗いですが、カメラのレンズが暗いものだったためにフラッシュなしでは写りませんでした。外付けのフラッシュ(父親所有)を使って撮りましたが、このあと横を歩いていた昼間っから酒臭い、いわゆる「ザ・ディープ大阪」なオッサンが「何じゃゴルァ○※♪■!」と怒鳴り追いかけられ、一緒に撮っていた友達と走って逃げたのを記憶しています。

 同じく難波駅にて、22000系です。行き先表示が「救援」になっていますが、これは表示の切り替え中に撮ったものです。当時、電車は到着してから表示の切り替えをしていました。今は折り返し電車の表示になった状態で入ってくることが多いですけどね。

 こちらも難波駅、列車は南紀直通の「きのくに」号です。この列車は到着列車で、このあと円板を掛け替えて回送列車になるのですが、なぜかそちらのほうの写真を何枚も撮っています。それが珍しかったのでしょうか、当時の自分の行動がよく分かりません。

 こちらも「きのくに」です。形式はキハ5500・5550を名乗っていました(片運転台が5500、両運転台が5550)。国鉄のキハ55と共通設計で、外見はそっくり。ただ側窓に渡してある保護棒と、その下にある電照式の「南海」の表示は南海だけのオリジナルでした。

 やっと全体が写っている写真が出てきた・・・と思ったら今度は小さっ!

 これは国鉄紀勢本線の岩代〜南部間で撮影したものです。時期は恐らく昭和60(1985)年前後、「きのくに」が特急「くろしお」に格上げされて消滅する、その直前の写真だと思います。

 こちらは1521系。私が子供の頃は支線区で活躍していた電車ですが、その頃の写真はすでになく、これは譲渡先の青森県・弘南鉄道の大鰐駅で撮影したものです。弘南鉄道入線にあたって、白帯が一本追加されていますが、そのほかはほぼ南海時代そのままで、大変懐かしい思いとともに乗車しました。

 弘南鉄道では、大柄な車体を活かしてラッシュ時の通勤・通学用に1往復が平日に設定されていました。現在はその運用も後進に譲り、倉庫で解体待ちのようです。

 上のほうの写真同様、難波駅です。左が1000系の本線の特急「四国号」、右が高野線の急行21000系です。同時期に作られた車両なのか、本当に良く似ていまして。これらのように、部分に近い写真だと判別は困難です。

 これは比較的新しいです。平成9(1997)年の画像です。21000系が引退するということになり、イベント電車が仕立てられました。珍しくこの手のイベントに応募してました。地元ということだからでしょうか(でも微妙に地元ではなかったりするのですが)。当選するなんて思ってもみず、イベント前日の晩から夜行列車で東北に向かうべく準備していたのですが、当選ハガキが返ってきて、慌てて旅程を組みなおして参加したのを覚えています。

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